彼が作家として歩むために必要なものは、すべて父親が与えてくれた。
父親は一流の推理作家だった。そして非常に仕事熱心だった。
朝起きるとすぐに書斎へ入り、トイレのとき以外はほとんど出てこなかった。
正月も盆も関係ない。家族旅行に誘っても断り、風邪をひいて熱を出したときでさえ、机に向かおうとした。
「そんなに働いて、疲れないのかい」
彼が尋ねると、父親は少し笑った。
「好きでやっているんだ。疲れるものか」
作家というのは締め切りに追われるものだが、父親の場合、締め切りがあってもなくても、生活はまったく変わらなかった。
ただ、不思議なことに、それほど書いていていても、出版のペースは遅かった。
筆が遅いわけではない。書斎の押し入れには大量の原稿がしまい込まれていた。
*
ある日、父親は彼を呼んで言った。
「お前に伝えておきたいことがある」
「なんだい」
「私が死んだら、書きためた原稿をお前の名前で発表しなさい」
彼は驚いた。
「ぼくの名前で? そんなことをしていいのかい」
「かまわん。お前は私の息子だ。才能を受け継いだと思われるだけで、誰も疑いはせんよ」
「しかし、どうしてそんなことを」
父親は得意そうに笑った。
「考えてもみろ。現金や土地を相続すれば簡単にバレて税金がかかる。だが、押し入れの奥にしまってある原稿なら、誰にもバレやしない」
さすがは推理作家である。人を殺す方法ばかり考えているわけではないらしい。
こうして彼は、作家として歩むために必要なものをすべて与えられた。
*
それからほどなくして、父親は死んだ。
推理作家の死としては、実にあっさりしたものだった。毒も、密室も、怪しい人物の影もなかった。単なる病死である。
長年、多くの人間を小説の中で殺してきたのに、自分の最期には何ひとつ趣向を凝らさなかった。
葬儀が終わり、彼が書斎を整理してみると、押し入れから大量の原稿が出てきた。
長編が三十数本。短編は百本を超えた。
どれも清書され、題名がついていた。
彼はさっそく、そのうちの一作を出版社へ持ち込んだ。
*
彼の目の前にいる編集者は、読み終わった原稿を手に、目を丸くしていた。
「これは、あなたがお書きになったのですか」
「そうです」
「素晴らしい。これほど完成度の高い新人の原稿には、めったにお目にかかれません」
「そうですか」
「特に最後のどんでん返し。いやあ、見事にだまされました。犯人がまさか、彼女だったとは」
編集者はいたく感心し、すぐに出版を決めた。
こうして、彼のデビュー作が世に出た。
これが、驚くほど売れた。
発売早々に増刷がかかり、書店には平積みされ、新聞の書評欄でも大きく取り上げられた。
「十年に一人の逸材!」
「推理小説界に新しい星が現れた!」
そんな見出しが並んだ。
ある評論家などは、次のように書いた。
「現代の若者ならではの大胆な発想が光る。これまでの推理小説の常識を覆す意欲作だ」
彼は、その書評を読んで思わず笑ってしまった。
父親がその原稿を書いたのは、おそらく二十年以上も前のことだったからである。
*
出版社は、次作を求めてきた。
「次の作品は、いつごろ書けそうでしょうか」
「もうできています」
「えっ、もう?」
「はい」
「それは素晴らしい。では、ぜひ拝見させてください」
彼は押し入れから適当な、原稿を取り出し、それを編集者へ渡した。
編集者はまた感嘆した。
「前作を上回る傑作です。いやあ、先生の才能には恐れ入ります」
二作目も売れた。
三作目は映画化された。
四作目はテレビドラマになった。
五作目が出るころには、彼はすっかり人気作家の仲間入りをしていた。
*
彼は作家稼業にもすっかり慣れていた。
取材を受け、書店でサイン会を開き、出版社の人間と酒を飲む。
忙しい毎日だった。
小説を書く暇など、とてもなかった。
もっとも、書く必要もなかったのだが。
父親の遺稿は、まだ山ほど残っていた。
*
ある日、出版社の編集長が興奮した声で電話をかけてきた。
「先生、おめでとうございます!」
「何がですか」
「文学賞ですよ。先生の作品が、ついに日本推理作家協会賞を受賞したんです!」
「ほう」
「ほう、じゃありませんよ。大変なことですよ。先生、これはたいした名誉なんですから!」
彼は礼を言って電話を切った。
*
やがて、授賞式の日がやってきた。
会場には大勢の作家や編集者、評論家が集まっていた。
壇上では、選考委員が受賞作を絶賛した。
授賞式のあとは、記者会見だった。
大勢の記者が詰めかけ、フラッシュが光った。
記者が最初の質問をする。
「今回の作品の構想は、いつごろからあったのでしょうか」
「以前から、温めていたものがありましてね」
これは事実だった。
原稿は長年、押し入れの中にしまわれていた。夏場など、さぞ暑かったことだろう。
「受賞の知らせを受けたとき、最初に何を思われましたか」
「父のことを思い出しました」
これも嘘ではない。
受賞した作品を書いたのは父親なのだ。知らせを聞いて、真っ先に父の顔が浮かぶのも当然だった。
不思議なものだった。
下手に嘘をつこうとすると、辻褄を合わせるのに苦労する。ところが、本当のことを言えば、記者たちは勝手に深い意味を読み取ってくれる。
しかも、正直に答えるほど、誠実な作家だと感心されるのだった。
なるほど、これは楽でいい。
彼はすっかり気をよくした。
次の質問にも、正直に答えることにした。
「作品の見どころを教えてください」
「まだ、読んでいないので分かりません」
