甘い汁を吸う

元号が昭和から平成に変わって、まだ間もないころ。

とある駅の売店前に、一台の自動販売機が置かれていた。

コーヒー、お茶、ジュース。どれも一律100円。駅という場所柄、売れ行きは悪くなかった。

朝は眠そうな通勤客がコーヒーを買い、夕方には学校帰りの学生がジュースを買っていく。

ところが、一つだけ、どうにも売れない商品があった。

お汁粉である。

売店の店長が冬場の目玉商品として仕入れたものだった。缶の中には甘い小豆の汁が詰まり、申し訳程度だが小さな餅も入っている。

寒い日には、さぞ喜ばれるだろうと思った。

ところが、これがまったく売れない。

考えてみれば当然だった。電車に乗り遅れまいと急ぐ人間が、のんびりお汁粉をすする姿など、あまり想像できない。

店長は困った。

仕入れた缶は山ほどある。このまま春になれば、ますます売れなくなる。

そこで、思い切って値下げをした。

100円を80円にしたのである。

しかし、売れ行きは変わらなかった。

店長は深いため息をついた。

「安くしたけど、売れないか」

 * * *

ある日、一人の男が売店に立ち寄った。

経営コンサルタントを名乗る男で、近くの会社で講演をした帰りだという。

店長が愚痴をこぼすと、男は自動販売機をじっと眺めた。

「なるほど。お汁粉が80円ですか」

「そうです。100円じゃ売れないから、20円も値下げしたんです。それでも売れない」

「ふむ。では、一つ試してみましょう」

「何をですか」

「値段を100円に戻してください」

店長はあきれた。

「冗談でしょう。80円でも売れないものが、100円で売れるわけがない」

「いや、機械の設定は80円のままで結構です。値札だけ100円にしてください」

「はあ?」

「まあ、見ていてください」

店長は半信半疑ながら、言われたとおりにした。

80円と書かれた値札を外し、100円の札に取り替えた。

コンサルタントは財布から100円玉を取り出し、自動販売機に入れた。

そして、お汁粉のボタンを押した。

ガタン。

温かい缶が取り出し口に落ちた。

続いて、チャリン、チャリン。

釣り銭口に、10円玉が2枚落ちてきた。

コンサルタントはそれを拾い上げ、わざと周囲に聞こえる声で言った。

「おや、これはおかしい。100円のお汁粉を買ったのに、20円もお釣りが出てきたぞ」

近くにいた学生が振り返った。

「えっ、ほんとですか」

「ほら、ご覧なさい。100円と書いてあるのに、20円戻ってきた。どうも機械の設定ミスらしい」

学生は目を輝かせた。

「うそだろ。俺もやってみよう」

100円玉を入れ、お汁粉のボタンを押す。

ガタン。

チャリン、チャリン。

「うわっ、本当だ! 20円得した!」

声を聞いた別の学生が寄ってきた。

「何だよ、何があったんだ」

「この自販機、100円のお汁粉を買うと20円返してくるんだよ」

「へえ、そりゃ得だな」

彼もお汁粉を買った。

やはり20円が戻ってきた。

「すげえ。俺も得した」

学生たちは嬉しそうに去っていった。

 * * *

噂はたちまち広まった。

「あの駅の自販機、設定が間違ってるらしいぞ」

「100円のお汁粉を買うと、20円返ってくるんだって」

やがて駅では、お汁粉が飛ぶように売れるようになった。

売店の店長は、信じられない思いで補充を繰り返した。

あれほど売れ残っていた商品が、今や自動販売機の一番人気である。

 * * *

ある夕方、あのコンサルタントが売店の前を通りかかった。店長は彼を呼び止めた。

「先生、いったいどういう魔法を使ったんですか」

「魔法など使っていませんよ。ただ、客の気持ちを変えただけです」

「気持ちを?」

「80円と書かれたお汁粉を80円で買っても、人は何とも思わない。でも、100円と書かれたお汁粉を80円で買うと、20円得したと喜ぶのです」

「同じ80円なのに?」

「そうです。100円の値札には、20円得する喜びがついているのです」

「なるほど……」

「しかも、その喜びは商品の価値より大きいことがある。お汁粉が欲しくなくても、20円得するために買ってしまうのです」

店長は感心した。

「人間というのは、不思議なものですね」

二人は顔を見合わせて笑った。

 * * *

店長とコンサルタントの会話を、少し離れたところで聞いていた男はハッと顔を上げた。

男は、駅前で家電量販店を経営する社長だった。

この社長は、客からの値引き交渉に頭を悩ませていた。

家電製品は値札どおりに買うものではなかった。客はテレビや冷蔵庫の前で腕を組み、店員に値引きを迫るのが当たり前だった。

「このテレビ、もう少し安くならないの?」

「こちらが精いっぱいのお値段でして」

「隣の店じゃ、もっと安かったよ」

「では、特別に3,000円お引きします」

「あと2,000円。そうしたら今すぐ買うよ」

そんなやり取りが毎日のように繰り返されていた。

値引きに応じれば利益が減る。断れば客は別の店へ行ってしまう。しかも、さんざん値切った客ほど、もっと安くなるのではないかと欲を出す。

ところが、今聞いた話では、たった20円に客が大喜びしている。

社長の頭に、ある考えが浮かんだ。

 * * *

社長は会社へ戻ると、幹部たちを集めた。

「諸君、値引きせずに客を喜ばせる方法を思いついたぞ」

「そんな方法があるんですか?」

「10万円のテレビを9万円に値引きする代わりに、10万円で売って1万円分を返す」

「それでは同じことでは?」

「返すのは現金ではない。次の買い物で使える権利として返すのだ」

「なるほど。それを使うには、またうちの店へ来なければならない」

「そのとおり。しかも、1万円を超える買い物をするかもしれん」

幹部たちは色めき立った。

「しかし、その権利をどう管理するんです?」

「カードに数字を記録すればいい。買い物をするたびに貯まり、使えば減る」

「その数字を何と呼びましょう?」

社長はしばらく考え、ぽんと手を打った。

「ポイントだ!」

こうして、その家電量販店では、値引き交渉に代わってポイントカードが登場した。

店頭には大きな看板が掲げられた。

「現金値引きに代えて、ポイント10%還元!」

 * * *

ポイントカードは好評だった。

「このテレビ、もう少し安くならない?」

「申し訳ありません。お値引きはできませんが、次回、1万円分の買物ができるポイントがつきます」

「1万円分も?」

客は喜んで10万円を払った。

1万円分のポイントをもらった客は、数日後、また店に現れた。

「この前のポイントがあるから、何か買おうと思ってね」

「ありがとうございます。こちらの電子レンジはいかがでしょう。2万円です」

「じゃあ、ポイントを使えば1万円で買えるわけか」

「はい!」

「そりゃ安い。もらおう」

客は1万円を追加で払い、電子レンジを抱えて帰った。

 * * *

そのころ、例の駅の自動販売機でも、相変わらずお汁粉がよく売れていた。

100円玉を入れると、20円戻ってくる。

その小さな得を求めて、人々は今日もお汁粉を買っていた。

もっとも、飲み終わった客の多くが、同じ感想を口にしていた。

「やっぱり、コーヒーにすればよかった」

それでも翌日になると、またお汁粉を買いに来る。

20円得するために。

やがてポイント制度は家電量販店から、スーパー、百貨店、飲食店へと広がり、世の中はポイントであふれるようになった。

人々はポイントを貯めるために買い物をし、ポイントを使うためにまた買い物をした。

こうして世の中に、ポイントという甘い汁が広まったのである。

しかし、本当に甘い汁を吸っているのは、いったい誰なのか。

そのことだけは、誰も考えなかった。